燃ゆる思考

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紅葉の公園をゆっくりと歩く。
僕に踏まれ、靴底で軽やかに砕けていく落ち葉たち。
樹木の枝にはまだ落ちまいと懸命に、最期のいのちを燃やしてい葉がある。
なぜ樹木は毎年、このドラマを繰り返すのか?
樹木のいのちはなぜこのようで在り続けるのか?
そして樹木のいのちに思いを馳せるぼくのいのちはどうしてここに在り、このようで在るのか?

考えるということの究極には、たぶん存在の謎が横たわっている。
それはすべての思考の究極であると同時に、出発点でもある。
しかし、存在の謎という課題と対峙した時、普通の思考原則がまったく通じないことにも気づかされる。
冷静なる客観的視点、分析と観察による定位・・・それらは存在の謎に対してはまったく無力なのだ。
なぜなら存在は客観的に在るのではなく、わたしたちを貫いて在るものだからだ。
そこではたぶん、客観的思考をするうえでは邪魔になる情熱というものが必要になってくる。
情熱思考とでもよぶべき資質が必要とされてくる。
そのように情熱によって導かれて対象に分け入り、対象とひとつになろうとするかたち・・・これは何かに似ている。
そう、恋愛に似ているのだ。
だから恋愛をしたことのない人間には存在の謎は考えられない、とまで僕は極論してみる。
もっとも、どんなに情熱的に存在の謎を考えたところで、それはやはり失恋に終わるだろう。
けれど、現実の失恋を乗り越えることによってかえって愛が深くなるように、存在に失恋することによって、僕たちはみずからのうちの存在をさらに深く目覚めさせることができるるのだと思う。

そうして・・・わずかに目覚めた存在の眼で事象を見つめてみれば、そこはいちめん燃えるようないのちの光りを放つ世界なのだ。

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