魂の果ての神

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 街中に大小のクリスマスツリーやイルミネーションが飾られて、心が浮き立つ季節になった。クリスチャンでもない多くの日本人が浮かれ騒ぐのはおかしいという意見もあるだろうけれど、日本人にとってはキリストも八百万の神様のうちのひとりなのだろう。寒いさびしい冬に華やかなひとときを創出するのは生活の知恵といえないこともない。
 だがそれと同時にぼくたちは無意識のうちに聖らかさ、敬謙さをも求めているのではないだろうか?教会のキャンドルが一種の沈黙の暗号であるように、街にあふれるイルミネーションも魂にしか感じ取れない暗号を伝えている。これらの美しさのなかに神の暗号をぼくたちは無意識に見ているのかもしれない。しかし、その暗号は実は森羅万象に秘められている。ぼくたちがそれらの暗号を絶えず感受し、その在りかを求め続ければ、それはもう信仰の領域に重なってくるのではないか。

 ところで、ぼくには信仰(宗教)というものがいまひとつよくわからない。いや一度はかなり真剣に信仰の道というものを考えたこともあるので、まったくわからないということでもないのだが、結局は核心となる「信じる」という行為を前に躓いてしまった。
それともうひとつ、神を求めるのになぜ宗教組織という集団性に依らなければならないのかがわからない。世の宗教というものを考えた時、ぼくがもっとも疑問を感じるのはそこである。独りで神を求めることは出来ないのだろうか?ぼくにはむしろ、神を求めるためには独りであることが絶対条件であるように思われるのだが。
 ぼくが昔何かの宗教に入ろうかと思いつめたのは、そのとき不安や孤独からの救いを求めていたからだった。けれど結局はそれゆえぼくは宗教の道に入らなかった。普通ならそのような動機こそが宗教に入るための常道であるのかもしれない。けれどぼくにはそれが不純な動機であるように思われたのだ。まず手っ取り早く安心を得たい、という不純な動機であると。実際に入信するひとたちが、そのように手っ取り早い安心を求めているのかどうかまではわからない。ただ宗教組織のもつ集団性というものが、そのような安心をもたらし易いのは事実だろう。真の信仰による安心立命なのか、孤独を癒す仲間をえたことによる目先の安心なのかは傍目にはわからない。もちろんぼくは宗教組織に入っているひとたちを誹謗したいわけではない。そのなかで魂を日々目覚めさせているひとも多いだろう。そう、問題は魂にあるのだ。
 個人の心の傷を癒したり不安や孤独を解消させるのが神の目的とは思われない。そうではなく神が求めているものは各人の魂の目覚めではないのか?そして目先の安心というものは魂の目覚めを阻害する方向に働くのではないか?もし、救いを拒む宗教というものがあったなら、ぼくも一度入ってみたいと思うのだが・・・。

 歴史上の人物、イエスはキリスト教団の創始者ではなかった。彼は誰にも頼らずあくまで独りで神と向き合い、その言葉を聞き取った。

 フィリポがイエスに言う、「主よ、わたしたちに父を見せてください。そうすれば、わたしたちは満足します」。イエスが彼に言われる、「これほど長い間、わたしはあなたたちと一緒にいるのに、フィリポよ、あなたはわたしが分からないのか -ヨハネ福音書-

 自らの魂に深くたずねることなく、神を見せろと安易にイエスに寄りかかろうとする者はイエスとは無縁の者であった。

 魂の道を歩み、その果てをどこまでも究めようとすること・・・信ずるということはぼくにとってはそのような旅であると思われる。
 人間は様々な物事や時の流れに翻弄されて生きている。ひとの心もまた同じであるが、その深い場所には普遍の魂が在るのだ。そのみずからの本質である魂を感じ、さらにその際限のない果てに思いをめぐらす・・・神とはそのような魂の果てに在るもののようにぼくには思われる。、

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