夢破れし後の哲学

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ひとが夢(願望の意での)という言葉を語るとき、それはあくまでも実現可能な現実として認識している。
たとえ他人には現実離れしていると見えても、その人にとっては可能性のある現実なのであって、手触りのない不可視の世界に憧れているわけではない。
しかし、ひとが現実と言っているものはほんとうに確かなものなのだろうか。
手触りのあるものが実は儚くうつろうもので、不可視のものこそが不易であるとは考えられないだろうか。
心にとっての現実と魂にとっての現実は決して同じではない。

去年、大晦日の紅白歌合戦で、スーザン・ボイルが歌ったのは『夢やぶれて』だった。       
夢を叶えた彼女には相応しくない歌のようでもあるが、この歌で時の人となったのだから、当然の選曲であるとも言える。
それに、彼女は人生の苦さを骨身に沁みて知っている人でもあるだろう。
人は決して平等には生まれつかない、才能や容姿、健康など・・・・何ひとつとして。
だから、日本の若い歌手が繰り返しメッセージに込めるような、あきらめなければ夢はいつか叶う、というような詞には抵抗があるかもしれない。

僕は、時に日本の若い歌手のメッセージに心動かされることがある。
そのような時、僕もまだまだ枯れていないなぁと改めて思ったりする。
けれども、それらの言葉を今後の自分の人生の教科書にはできないとも同時に思うのである。
それらきらびやかな(痛みを歌ってさえ)言葉は基本的に若い人から若い人へのメッセージと受け取ったほうがいい。
経験を積んだ大人は彼等の言葉を懐かしくいとおしく胸のうちに包んでおげばいい。
ほんとうのところ人生は努力だけでどうにかできるものではないし(努力で解決できるものももちろんあるが)、絶対に越えられない壁というものも厳然とある。
痛みや苦しみを、夢で跳ね返せ、頑張って乗り越えろ、というメッセージには、だから本当の意味での愛がない。  
そうではなく、痛みや苦しみ、生まれながらの差違などすべてを受け入れる静かな覚悟のなかにこそ、ことさらなメッセージを越えた愛が生まれるのではないか。。
それは<私>から出ているようであって<私>のものではないような不思議な愛なのだと思う。

夢を叶えたいと希うひとの心はいじらしい。
たとえそれが欲望や野心という言葉に容易に置き換えられるものであったとしても。   
ただそれが個人としての希いを離れ、夢を叶えることが正しいこと、意義あることという思潮になってしまうと、とたんに息苦しいものになる。
無意識のうちにそこには、夢を叶えた否かで人生の価値が決まるとするような思考が働いている。
それは人生を勝ち組と負け組に二分する市場原理の思想にも通じるものである。

夢を叶えようが、夢破れようが、そこは終着点ではない。
そこから、深く魂で感じて生きることができるかどうかが問われるのだ。
深く感じながら生きることだけが、自らの存在を全うする。
苦しみ多い人生は時に人を歪ませるが、感じる心と自らへの問いを手放さないならば、夢を叶えた人生よりも豊かに広がるのではないだろうか。
苦しみを恨むのでも厭うのでもなく、それを受け入れ、味わいつくすとき、おそらく人生は反転するだろう(夢を叶えることよりはるかに困難なことだが)。
自分ひとりの苦しみは消え、運命というものにより拓かれた人生が見えてくるはずだ。

夢を追いかけるのでも夢に生きるのでもない、夢そのものとして生きていく人生へと。


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この記事へのコメント

於兔音
2010年01月28日 01:42
夢そのものとして生きていく。
なんと美しいことでしょう。。

最近、夢を見なくなったと思っていたら、
ここのところ、また夢をよく見ています。
混沌としたストーリーと、色彩。
言うに言えない不思議な夢です。
E・G
2010年01月28日 19:00
こんにちは。
夢というもの、心理学をかじってわかったような感じ
を持ちがちですが、ほんとうのところはよくわかりま
せんよね。
存在や宇宙的ないのちとも関わりがあるかもしれない
などとも思いますし、真の思い出ともつながっている
ような・・。
於兔音さんは、色彩豊かな夢をご覧になるのですね、
なんだか納得です。
はるママ
2010年01月28日 22:58
ご無沙汰しています。
「夢破れし後の哲学」心の中で頷きながら読ませていただきました。

若いころの自分は、なんでも努力すれば、それなりに
思いを実現することはできると思っていました。
その頃の自分はなんて思いあがっていたのでしょう。
そんな愚かな母親に対して、今は亡き娘はたくさんのことを
教えてくれました。
娘自身は何かを教えたなどとは思っていないのでしょうけれど。。

苦しみを苦しんでいるうちは辛いものですが
苦しみを受け入れたとき、気持ちは少しは楽になるものですね。
でも、実際のところ(自分の場合)苦しみを味わいつくすというのはなかなか難しい。
まだまだですね。

最近、池田晶子さんの本を再び読み始めています。
今は「考える日々」を読んでいるところです。
E・Gさんは、その後池田さんの本、何か読まれましたか?
E・G
2010年01月30日 19:49
はるママさん、こちらこそこ無沙汰しています。
長年、苦しみと向き合い、それを昇華されてきたはるママさんにエッセイを認めていただけると、ほっとします^^
苦しみと向き合うということは、自らの魂、運命と向き合うということではないかと思います。
もしかするとはるママさんにとつてそれは、死など実は存在しないと分かる過程でもあつたのではありませんか?
池田さんの本は呼ばれた時?に読む程度ですが、魂という言葉が表題にある本はつい読みたくなります。

 人はじつは、「死んでも、死なない」という事実を、ごくあたり前のことと
 して納得し、受容することができるような語り起しが必要である。これぞ本
 来の「インフォームド・コンセント」、それで私は魂というカードを持って
 いるのだが。 -「魂とは何か、さて死んだのは誰なのか」-

魂を感じて生きるひとならば、よく分かる言葉ですよね。

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