記憶のために-池田晶子さん没後3年目に思う

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  感傷とは、失われた時への愛情だと思っていた。しかし、これは正確ではない。むしろそれは、決して失われ
  ることのないものへの驚きと畏れだ。失われるのは記憶ではない、私たちの人生のほうだ。或る朝私は、死
  の中へ目覚めでたことがある。それは決して喜びの情調ではなかつたのだ、私たちの孤独は死によってさえ
  癒されないだろう。人生とは、定められた記憶の成就のために課せられた時間だ、自我も自由も幻影だ。しか
  し記憶は残るだろう、星々の明滅のような私たちの生死をそこに、在ったものはずっと在り続けるだろう。
                                 「魂とは何か さて死んだのは誰なのか」-池田晶子

 池田晶子さんが亡くなられて3年目にあたる今日2月23日がやってきた。
 池田さんの本で初めて読んだのが『魂を考える』。図書館で哲学書のコーナーを横切ろうとした時、まるで呼ばれたように、その背表紙のタイトルに目がひきつけられた。最初に読んだのがこの本でなかったら、池田さんの本を継続して読むこともなかつたかもしれない。ぼくにとってもひとつの出会いであったが、池田さんにとつても『魂を考える』はター ニング・ポイントとなる著書ではなかったろうか。
 魂の発見以降、論理では絶対に捉えられない存在の謎をあえて探求することが池田さんの思索の本道となった。魂の発見とは同時に記憶の発見でもある。記憶の断片としての魂は、その記憶の成就のために何度も生まれ来る・・・・・・・のかもしれない。
 池田さんといえば、考えることの大切さを提唱した人というイメージがあり、それはまったくそのとおりなのだが、それだけでは池田さんの魅力の半分も伝わらないと思う。考えるためには、まず考えられる当のものを感じていなければならないと語っていた池田さんの、その感じていたところのものをこそを共有したい。その時、ぼくたちにとって池田さんとの別離は消滅するのだ。想像するに、池田さんにとつて感じているものを考えとして表現するということは、記憶していた大切な何かを思い出そうとするような作業ではなかったろうか。
 考える文体から感じる文体へと深化し続けていたその文章。小気味良い、時に啖呵を切るような初期からの文章も魅力なのだが、ぼくはやはり、時に論理の向こう側に踏み出すかのような、晩年に散見される詩的文章に心ひかれる。もちろん池田さんは詩人になろうとしていた訳ではなかつたが、踏み出したその世界を映す言葉は、どうしても詩や神話の色彩を帯びるほかはなかつたのだ。
 定められた記憶の成就-論理的には説明困難な表現にもかかわらず、ぼくの魂は何の苦もなくその意味を了解する。池田さんがあと10年存命であったら、とは思っても詮無いことではあるが、神と魂の構造をめぐる神話を紡ぎ出していたかもしれないその言葉をぼくは夢想し、その在りえたかもしれない未来の時を、記憶するのだ。




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この記事へのコメント

はるママ
2010年02月24日 14:44
もしやと思ったら、やはりE・Gさんも書いてみえましたね^^
「魂を考える」は、絶版になっているようですが
昨年出版された「魂とは」の中に、かなりの部分が収録されているようですね。
私も、こちらの本は出版後すぐに読みましたが、なかなか面白かったです。
私は中期から後期に書かれた作品から入り、
最近になって、「考える日々」や「オン!」など、初期の作品を読んでいます。
私もやはり、どちらかというと情緒あふれる最後のころの作品が、中でも「暮らしの哲学」が、特に好きです。

池田さんにはもっと生きて、もっともっといろいろな言葉を語っていただきたかったですね。
私は池田さんの訃報を伝えるニュースで初めて彼女のことを知ったので、
生前の池田さんのことは全然知らないわけで・・
もっと早く知っていたかった。残念でならないです。
ただ、著者との出会いや本との出会いというのも
なにかその時の必然のようなものがあるのかも、と思えたりもしてますが。。
E・G
2010年02月24日 20:48
はるママさん
晩年の池田さんは歳をとることを楽しみにしていましたね。ハイデッガーの「時熟」という言葉を取り上げて、精神が時とともに深く熟していくその喜びを語っていました。
普遍の側から現象を見れば死は存在しない、だから死は怖くないと、池田さんは言っていたわけですが、それならなぜわざわざ池田晶子という個人を自分はやっているのかという問いにも行き当たっていたようです。実はこれからが池田さんの本領発揮となるところではなかったかと思うにつけ悔やまれます(せめてお酒を控えめにされていたらとか:笑)が、読者であるぼくたちがその問いを引き継いでいくよりほかはありません。
出会いたい魂とは実は意識の深いところですでに出会っていて、そこから遅れてこの現象界での出会いが生まれるのかもしれませんね。

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