天動説

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天動説

月は濡れて胸に墜ちる
星々が撒き散らされ
神話が魂たちのうちに宿る

( 船は生も死もない海へと乗り出しました )

あなたは永遠の邂逅のために
終わりなくわたしを巡っている
だからわたしは独りの中心となって
すべての外部とともにそこに在る

( ただあなたを想って逆巻く星雲のように独り )

溢れ溢れて宇宙となり
求め求めてわたしに結晶する

すべての中心にいのちがある






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この記事へのコメント

S子
2010年05月31日 12:08
( ただあなたを想って逆巻く星雲のように独り)・・・

最近、素敵なページが突然消えてしまいました。

何も知らなかった私、今は最後となったコメント。
何を告げたかったのでしょう。そしてわたしは…
何を記してきたのでしょう。

探しても、探してもいないのです。
昔、昔あの人が私の前から忽然と消えたように・・・

別れに何時も怯えている私です。
E・G
2010年05月31日 20:18
S子さん

さびしいですね。
ぼくもそうやって幾つものサイトを見送りました。
素敵なサイトほど、なぜか儚いです。

ネットという場所はもう想いを発信し、表現にか
ける場ではなくなっていることも原因しているか
もしれませんね。

ぼくの場合、別れは必ずあると思っているのです
が、それでもさびしいものはさびしいです。
ただ、本当に出逢ったのなら、別れなどないのだ
と思いますが(魂の話として)。


S子
2010年06月02日 14:21
本当に出逢ったのなら、別れなどないのだ・・・

私も信じます。
E・G
2010年06月02日 20:06
ネットを漂流していて、まれに素敵なサイト、ブログを発見することがあります。
ただし、なぜか必ずといっていいほど主は旅立ってしまった後です。

寂寥としたその場所を逍遥しながら、主がどんな人であり、なぜ去っていったのかと思いを馳せるのは案外楽しいです(会いたかったという思いはありますが)。

ぼくもネットを去るときは、サイトもブログも置いたま消えたいなと最近は思いますね。
そしていつか誰かが思いがけず発見してくれ、共感をしてくれて、この人はどんな人だったのだろうと想像してくれたら素敵です。

「イトカワ」に着陸した「はやぶさ」もそんな気持ちだったかな?
もうすぐ還ってきますね。
はるママ
2010年06月10日 13:49
現実世界でもネット世界でも、
出会ったものは、いつか必ず別れる・・儚いものですね。
ネットの世界は、画面を通してのみの繋がり
なので現実世界以上の儚さがあるのかもしれません。

私のブログも、いつ消えてもおかしくないような状態なのですが
消えそうだけど消えない・・細々ながら続いています。
といっても最初からやる気なさげなブログなのですが・・
現実には語れないこと、語りあえないことが
ブログでは表現できる。これがあるから、止められないで
いるのかもしれません。
でもいつかはきっと終りの時がくるのでしょう。
その時は、私もサイト置いたまま消えたいですね。

>(魂の話として)本当に出逢ったのなら、別れなどないのだ・・・
この言葉に救われるおもいがします。
E・G
2010年06月10日 19:33
こんにちは、はるママさん。
はるママさんは筆力がお有りですから、ぼくなどよりずっと長く続けられると思いますよ(^_^)

さて、偶然ですが、今日、iPhoneの電子ブックを読んでいて、はるママさんに思いが飛びました。実は池田さんも再発見すべき哲学者として取り上げていた西田幾多郎の「我が子の死」という一文を読んでいたのです。
(抜粋)
今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、如何なる訳であろうか。もし人生はこれまでもものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない、此処には深き意味がなくてはならぬ、人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。・・・

ぼくの場合、娘は亡くなったわけではなく単に不治の障害をもっているだけですが、それでも昔はよく考えつめていました。娘が生きていることにはたして何か意味があるのか、無いのか、翻ってすべてのひと(いのちの長短や障害のあるなしにかかわらず)にとって生きることの意味は・・無いのならそれでよし、あるのなばどうしても知りたいという
火のような思いを抱えて。

なので、何だか難しいことばかり書いていた西田幾多郎の哲学の根底にも同じような心情があったんだなぁと、急に親近感を感じた次第です。

西田哲学に、「永遠の今」という言葉があります。過去も未来も、生も死もなく、すべてがこの一瞬のなかで出逢える場、「永遠の今」を自分も生き続けたいと希っているのですが・・・。
はるママ
2010年06月11日 11:16
西田幾多郎については、池田さんの本の中にもたびたび登場してきて、名前だけは知っていましたが、詳しくは知りませんでした。
子どもさん何人も亡くされているようですね。
「我が子の死」引用部分を読んだ後、ネットで検索して全文一気に読んでしまいました。
驚くほど、自分が感じてきたことと同じことが書かれていて、読んでいて思わず涙がこぼれました。

E・Gさんは、西田哲学にも通じてみえるのですね。
私は、難しい理論などはわかりませんが
今回の文章を読んで、親しみとともに、少し関心も持ちました。
文章最後の部分、親鸞の教えのところも興味深かったです。

『・・・運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである、後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依(きえ)する時、後悔の念は転じて懺悔(ざんげ)の念となり、心は重荷を卸(おろ)した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。・・』

とかく罪悪感に苛まれがちな、子を亡くした親にとっては救いとなる言葉です。
歎異抄も昨年2冊ほど読み、記事にしようとしましたが、書きかけのままになっています。いつかもう一度じっくりと読みたいと思っています。

「永遠の今」いい言葉ですね。すべての真実を言い表しているような・・
E・G
2010年06月11日 22:30
はるママさん

何だか余計なことを書いてしまった気がしていましたが、西田幾多郎の言葉に救われるようと仰っていただいて、ホッとしました。

ところでぼくは西田哲学に通じてなんかまったくいませんよ(^_^;)
ただ、その目指していたところが生命哲学だということは何となく分かります。
「我が子の死」に書かれていたような人世の悲しみ、愛苦と無縁のところに打ち
立てられた哲学ではないと思います(西田哲学のエライ評論家の方々が、その点に触れていないようなのが不思議ですが)。

歎異抄なら、五木寛之より大峯顯さんの解説本を読んでみたいかな。


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