感じる宇宙(コトバの海)

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世界のことを考えている。海というものは不思議なものだ。
-西田幾多郎



感じなければ何も始まらない。
どんなに知識があつても決して届かず、感じることでしか
体験できない世界の 深さ、それを言葉にすることはできない。

『言葉の果てが世界の果てだ。』と言ったのは誰だったろう?
言葉の果てのその先はただ感じる他はない。
言葉にできないものをそれでも言葉にしようとする時、詩や物
語か生まれるのだ。

感じることは考えることよりも遥かに広大で深い領域を有して
いる。というより考えるということも感じることの一属性なので
はないか?

そこには言葉いぜんのコトバの海がある。
思考ではなく、いのちそのもののエネルギーによって記述され
る意味のカ オスがある。

宇宙はただ感じていたいのかもしれない。
おそらく宇宙は(コトバ)そのものなのだ。
それは宇宙をも産み出す宇宙なのであり、すべての現象する
ものと、現象以前のものを貫くいのちの海なのだ。



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この記事へのコメント

於兔音
2010年06月15日 02:14
この、男の子はまさに原初の言葉を
発しているかのように見えますね。

言葉とは、何なのか・・
ただ、感じているだけでいいのではないか・・・
いつも、思うことです。
E・G
2010年06月15日 18:48
さんがつさん
海を見つめていると時間の感覚がなくなっていくようです。
そして、子どもの頃の、あの濃密で特異な世界感覚に引き戻されます。
幼い子どもというのは世界のあわいにあって、まだ原初の言葉を聞き取れるのでしょうね。

ただ、感じてさえいればいいのでしょう。
ですが、それでも言葉にしたい、表現したいとする人の熱情の核心、根底のなかに、大げさにいえば神の意思が働いているようにも思われます。
はるママ
2010年06月17日 15:14
宮沢賢治は、「注文の多い料理店」序文の中で次のように語っています。

「・・これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹(にじ)や月あかりからもらってきたのです。
 ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。・・」

賢治も、詩や物語を意識的に作ったのではなく、世界の中で感じたことをそのまま書き留めただけなのだと言っています。
表現をかえれば、賢治を通じて表現された、賢治が書かされた・・とも言えるのかもしれません。
E・G
2010年06月17日 19:26
書くのではなく書かされる・・これが真髄ですね。
「心象スケッチ」詩というのは、まさにイメージの奔流に襲われているという感じです。
「青森挽歌」という詩を読んだ時は、なんだか異様だなと思いつつも、同時に天才の技だと思わずにはいられませんでした。
天才の条件とは、この襲われるという特質にあるのだと思います。
Tycho
2010年06月23日 23:28
私は、この写真を見て、Rachel L. Carson の"The Sense of Wonder"を想い出しました。
その中で、
「子供たちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です」
と云っています。
"かけがえのないもの"に触れることは、大切なものが何かを知ること。

私も、海にはよく連れて行ってもらった。
けれども、渚で遊ぶ当時の私は、未成熟な記憶と意識の綯交ぜの中で、原体験として残り、明確な記憶としてではなく、今でも曖昧模糊とした容で、私の躰のどこか密やかなところにたゆたい続けている。
どれだけたくさんの"原初の言葉"をもらったのだろう。
この、私を決める大切な魂の構成要素のひとつにさえ、何も知らずにいる。
けれども、記憶の外側にあるそれは、確かにそこにあるような気がします。

吉本隆明の"芸術言語論"に「言葉の幹と根は沈黙である」とあります。
たぶん"原初の言葉"は、おそらくこの根のどこかにあるのでしょう。
そしてこうも云います。
「枝や葉そして実とは、コミュニケーションのための言葉」
だとしたら、結実した実は要注意ですね。
ところで、私という樹は、どのような姿をしているのでしょう。
少しだけ気になります。
E・G
2010年06月24日 22:07
Tychoさん、お久しぶりです!

"The Sense of Wonder"-昔あるひとから贈呈されて、一度読んだきりになっていました。嵐の夜の海岸で幼い甥っ子と二人、海のあげる咆哮に興奮し、楽しむ作者の姿に共感したことを覚えています。ぼくも嵐の夜、雷の夜には血が騒いで外に飛び出したい変なヤツなので(笑)
この本、また読んてみますね。

ぼくも実は、4歳頃まで海に近い所に住んでいました。
父親が肩車で、よく浜辺まで連れて行ってくれていたらしいのですが、記憶は一切ありません。
ただ、からだは覚えているのでしょうね(あるいは海が覚えているのか?)。

<私>というのは誰もが思うほど、単純に指させるようなものではないのかもしれません。だから、私という樹の沈黙にいつも耳を傾けていたいと思います。その見えない根が捉えている深い言葉とひとつになれるように。

Tychoさんは、さわやかな高原のようなイメージがあるので、樹の姿は白樺かな?^^

S子
2010年07月11日 09:40
思考ではなく、いのちそのもののエネルギーによって記述され
る意味のカ オスがある

総てが燃焼しつくした時・・・
カオスが迎え入れてくれる?

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