思い出

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あなたの眠りのなかで
思い出に手を添えたのです

しずかに眼を閉じたかなしみ
かけがえのない痛みの思い出に





この記事へのコメント

S子
2011年06月27日 12:44
年々、思い出は痛みへと変わってきます。

楽しかったはずのあの日。
幸せだったあの時。

それさえも・・・今は涙。
涙が、心をいやしてくれるのかもしれません。
E・G
2011年06月27日 21:22
S子さん
今日は天気予報が外れてこちらは雨が降りました。
紫陽花も少し生き返ったようです。

ぼくの場合、思い出は痛みを伴うものであっても、
涙にはつながらないようです。
痛みではあっても、かけがえのない痛みという感
じですね。
S子
2011年06月30日 16:28
涙もろくなったのはきっと…
齢の所為。

(そして情けないのです)

総てが忘却の彼方へと
過ぎ去ってゆくことが。

紫陽花美しいですね。
私のページの紫陽花、戴きものです。
E・G
2011年07月01日 07:29
痛みがあれば、忘却もないでしょう。
また忘却と見えて、痛みがより深い愛
へと変わっているのかもしれません。

白い紫陽花も風情があっていいですね。
はるママ
2011年07月02日 19:05
不思議なことに痛みを強く感じている間は、
逃れたいとばかり思うのですが、
ときとともに和らぎ、思い出もぼんやりとしてくるにつれ
痛みの記憶でさえも懐かしくかけがえのないものに思えてきます。
そして同時に激しく痛みを覚えない自分が薄情にも思え、申し訳なくも思えてくるのです。

それでも薄れゆく記憶を手繰り寄せ、かつての娘の表情のひとつひとつを
脳裏に浮かべたとたんに、涙が零れることに
なんとなくほっとしたりもしています。
娘を想う気持ちはなにも変わっていないのだとそう確信できたようで。
E・G
2011年07月02日 23:41
はるママさん

決して薄情などではなく、痛みの幅と深みが増しているのかと思われます。
そのとき個人の痛みは、いのちの根底にあるより大きな痛みに触れるのでしょう。

以前何かの本に、法隆寺の釈迦涅槃像をとりまく弟子や天部、菩薩の表情のことが書かれていました。弟子たちはあたりもはばからず号泣し、天部たちは悲しみをこらえ、菩薩は微笑をたたえているというのです。そしてほんとうのかなしみは菩薩の微笑のなかにある、というようなことが書かれてあったかと思います。

はるママさん個人としての痛みはやはりどんなことがあっても消えないのでしょう。けれどその痛みの真実を追い求める過程で、はるママさんは何か大きな存在(いのち)のかなしみを感知されたのではないでしょうか。

微笑が究極のかなしみの表現ということは、究極のかなしみのなかにこそ愛(慈悲)の本質があるということかもしれませんね。

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