パラダイムシフト-原発という非現実へ

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大飯原発は何がなんでも再開させる、という政府の意思があきらかにされた。国民生活を守るためという首相の演説、夏限定の稼動という妥協案を「経済がわかっていない」と一蹴した経団連会長の言葉など、政財界をあげての原発再稼動へと向けた発言が続いている。

つまるところ、原発に反対するような人間は現実というものがわからない甘っちょろい理想主義者だ、というのが原発推進派の人々の一致した認識だろう。しかし、現実が分かっていないのはむしろ、反省もなく旧来の原発政策に固執しようとする推進派の体質のほうではないだろうか?
対して、脱原発を目指す側からは安全やエネルギーなどの視点から多多反論があると思うけれど、ここでは何が現実的かという点に絞って考えてみたい。

まず世の中に絶対ということは無い、という現実だ。
事故が起きる可能性はどんなに対処してもゼロにはならないし、ヒューマンエラーが根絶されることもない。設備は疲弊し、人間は間違え、天災は予告もなくやってくる --それが当たり前の現実なのだ。

そして原発の場合、いったん大きな事故がひき起こされれば壊滅的な打撃がもたらされるという現実が続く。
何十万何百万という人が生命の危機にさらされ、居住地を奪われるなどという事故は、他の発電所の事故では起こり得ないことだ。

さらに、その経済に及ぼす破壊力が農業、漁業、工業、畜産業等あらゆる経済分野に及ぶという現実がある。
もし福島原発以上の大事故が起きたら、日本は世界のなかで経済的に孤立し、二度と立ち上がれなくなるだろう。

そして推進派がなによりわかっていない現実がある。
それは日本人全体の意識がすでに脱原発という静かなうねりを生みはじめているという現実だ。
脱原発を主張しているのは、もはや一握りのひとたちばかりではない。そんな主張は市民活動家や、反体制的人物の扇動に過ぎないと、政府や財界のひとが軽く思っているとしたら、日本人の意識の底流に生じた大きな流れを見誤ることになる。
歴史というものは決して少数の特別な人間が動かしているのではない。静かにひっそりと、すべての人間の意識の底流で動く小さな変化が、最後にはとどめようのない大潮流へと姿を変えるのだ。
こうしてパラダイムシフトが起こる。この脱原発のパラダイムシフトは、まだ完全には固まっていないかもしれない。だからこそ推進派のつけ入る隙がまだあるのだが、長期的には原発というものの存在が、バベルの塔のように非現実なものへとイメージされる時代がやってくるのではないかと思っている。


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