切り分けられた魂のために

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魂は見えない。でも、感じることはできる。君が悲しいと思うとき、君は全身で魂を感じでいる。苦しくて、どうしようもなくて、ただ苦しみに身を投げ出しているとき、君は魂を生きている。悲しみも苦しみも、すべて魂の営みだからだ。-「魂にふれる」若松英輔

左手の存在を、右手が抹殺していいものだろうか。
貶め、
傷つけ、
笑いものにしていいだろうか。
ただひとつの身体を共有していることを愚かにも失念して。

身体の話しをしたいのではない。
魂の話しをしたいのだ。

私たちが、一個の現象としてここに在るということは、存在そのものから切り離され、分別されているということだ。

分別された魂はその本源を忘却し、己が魂であったことを見失ってしまう。
さらに魂としての自己を見失う一方で、他者を別存在として区別する自我を生じさせる。
自我によるそのような区別は、ただちに差別を生じさせずにはおかないだろう。
区別と差別は違うものであるとはいえ、区別を意識するやいなやただちに差別を生み出してしまうのが、自我の宿命だ。

だから私たちの誰もが、程度の差こそあれ差別心を持っている。
ただ、そのなかで己の由来が魂であることを知っている人間、おぼろではあっても魂であることをを憶いだせる人間だけが、そのような自身の愚かさに恥じ入り、胸を痛め、悲しむのだ。悲しむことができるのだ。

悲しみを知らない人間は恐ろしい。そのような人間は平気で己が魂を傷つける。魂を傷つけることで心の痛みを喪失し、他者を傷つけることに不感症となる。

大津市でひとりの中学生がいのちを奪われた事件で、いじめをしたとされる同級生たちは、自分たちはいじめたのではなく、ただ遊んでいただけだと弁解しているのだという。
おそらくその言葉に偽りはないだろう。いじめという認識がなく、遊びだと本心から言えてしまう、その魂のありかたこそがむしろ恐ろしい。
他者を傷つけ、貶め、もしかしたら死に追いやる可能性までをもゲームとして楽しめてしまう、そんな感性こそ恐ろしい。

切り分けられた魂たちが現象するこの世界は迷妄に支配された世界だ。迷妄に迷妄を重ね、どこまでも墜ちていく魂の一群。

このような世界のなかで、、悲しみだけが迷妄を払う力を持っている。
なぜなのか?それは悲しみだけが、個を超えた大きないのちからやってくるからだ。
悲しみだけが、わたしたちに魂の在り処を指し示してくれるからだ。
悲しみとは、つまり愛の別名に他ならない。

一方、存在(信仰を持つひとならば神や仏と言いかえてもいい)にとってすべての魂は自身の分身だ。
迷妄の極みに墜ちた魂にさえその愛は注がれる。いや、むしろ闇のなかの魂へこそ、その愛はいっそう強く注がれるだろう。
何て不公平なとも思われるが、それが存在の愛のかたちだ。それは深い悲しみとして、魂に目覚めたものを通して顕現する。

先のいじめ事件のようなことがあると、わたしたちは事件の加害者を憎まずにはいられない。精神的苦痛を感じないのならば、せめて鉄の檻に閉ざして、肉体的苦痛を与えてやりたいと切に思う。それはあまりにも当然な感情ではないか。罪を憎んで人を憎まず、などという説教は聞きたくもない。

しかし、そんな沸騰するマグマのような感情のなかを、悲しみが一瞬風のように吹き抜けることはないだろうか?
それは実は私たち個々人の感情ではない。
大きないのちである存在が、わたしたちの魂を通して現れているのだ。

著書「魂にふれる」のなかで若松英輔氏は、悲しみに支えられた愛を「悲愛」と名付けた。

ぼくらの課題、それは生きることだ。そして、他者と悲愛によって結ばれることだ。それには時に困難がつきまとう。その時は祈ろう。祈りとは、願うことではない。むしろ、願うことを止めて、沈黙の言葉を聞くことだ。

わたしたちは真に他者を愛することができない。切り分けられているその存在のありようが、わたしたちのうちに区別、差別の迷妄を生み、その迷妄が愛に覆いをかけるから。
けれど、切り分けられた魂たちは再び統合を目指す。そのただひとつの力となるのが、悲しみという愛の力だ。
それは幾多の苦しみを通過せずにはおかないだろう。
その道程はあまりにも無限に続くかのようであるだろう。
けれどそれが存在の選んだ物語なのだ。

震災後、絆という言葉がよく使われている。これも私たちの深いところで魂の統合を目指そうとする漠然とした現れであるのかもしれない。
しかし、この絆という言葉が何とも胸に響いてこないのはどうしたわけだろう。
この言葉は深い悲しみや苦しみの中心から生まれた言葉ではない。
むしろ喪失のあまりの深さに怯ええた周辺の人々が、肌を寄せ合うように唱えはじめた言葉だった。悲しみへの接近ではなく、悲しみから逃避したい心情から生まれた言葉だった。
しかし、真に絆という言葉を生かしたいのならば、わたしたちはむしろ悲しみの中心に入っていかなければならない。それでなくてはどんな不安からも私たちが逃れるすべはない。

悲しみの中心に入るということは、悲しんでいるひとに同情して手助けしたり、助言したりすることではない。それはもちろん生活レベルでは有効な活動だ。しかし、それよりも重要なことは悲しんでいるひとの魂に触れるということだ。
悲しんでいるひとは、実は私たちにとって無言の教師なのだ。真に与える者は私たちではなく、悲しんでいるひとだ。悲しみによってひらかれた魂の深みに想いを寄せることが、私たちの真の救いとなり絆となる。

悲しんでいるひとの沈黙-それは百万言の人生訓よりも勁い。
悲しんでいるひとが海をみつめる眼差し-それは私たちには見ることのできない悲愛の世界を見ている。
また、悲しんでいるひとがわずかに漏らす言葉は私たちの眠っている魂を揺り動かす。
「神なんてあるものか」-たとえば悲痛のなかでこんな言葉を漏らすひとがいたとする。私たちはただそこに絶望に打ちひしがれた姿をみるだけだろう。その表面的な否定性にとらわれて。
しかし、これまで信仰というものを持たなかったひとが、それでも生きていくことを選んだうえでこのような言葉を発したのならば、実はそのひとは言葉とは裏腹に、裸の魂で神と向き合っているのだ。
存在そのものと向き合っているのだ。

悲しみはいったんひとを死なせる。そして生まれ変わらせる。
なぜならそれはすべていのちの働きであるからだ。

切り分けられた魂である私たちは、それでも切り分けられない大きないのちで実はつながっている。
先に、存在から切り離されている魂と言ったけれど、悲しみを通して自己の魂を見いだすと、ほんとうのところ魂たちはいのちの海原の一滴として、互いにつながっていることがわかる。切り分けられている、という意識そのものが実は迷妄であったとわかる。

そのいのちの想いに身を委ねる時、私たちは悲愛とともに、自己の魂の使命を憶いだすのではないか。




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