哲学の巫女へ-遅すぎる追悼

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 人がほんとうに自分が生きるか死ぬかのクライシスになったときに求めるのは、お金でもモノでもなくて、ほんとうの言葉でしょう。言葉がなければ人は生きられない。
                                   『君自身に還れ』-池田晶子


 不覚だった。池田晶子さんが亡くなっていたことに半年も気づかなかったのだ。彼女の著作からはこのところ離れていたが、それはいつでも帰れる家郷のように思っていたからでもあった。一瞬、帰る家を失ったようなさびしさが胸を掠めた。ぼくのように平凡な人間が口にするのはおこがましいことだが、どこかで彼女を同志のように思っている部分があったのだ。
 しかし、その死を悲しむことなど彼女にとっては笑い事でしかないだろう。彼女は池田晶子という地上での属性をぬぎすて、本質である『だれでもない』存在へと還っていっただけなのだから。

 「もう会えない」という感情のほうが、悲しみの内容としては強いのでしょう。でも、その「もう会えない」とはどういうことかと考えてみると、裏から言えば、会えたこと自体が、そもそも奇跡的なことだったと気がつくことになる。つまり、なぜ存在するのかわからない宇宙に、なぜかわれわれは存在していて、なぜだかわからないけれども、その人と出会ってしまったわけです。これはすごく不思議で、これ自体が奇跡的なことだったと気がつくと、悲しんでばかりでもなくなる。驚きとともに、感謝にも似た感情も起こってきますね。
 また、会えたこと自体が奇跡ならば、なぜまた会えないことがあるのか、という考え方もできますね。さきほど「無というものはない」といいましたが、いなくなるということは、実は無がないかぎり「ない」のですから、いなくなるということ、無くなるということはないともいえる。おそらくそれが、われわれがなぜだか出会ってしまったという奇跡の意味でしょう。一期一会は存在の構造です。-『人生のほんとう』


 それにしても46歳はやはり若すぎる死だった。もっと歳をとってからのより磨かれた彼女の言葉を聞きたかった。詩のように昇華された言葉-哲学の巫女としてのその言葉を。

 年をとることを楽しみにしていた。反省することの豊かさが、思考を深めていくと確信していたのだ。いつか、哲学的な論理の言葉を超え、神話の言葉で「普遍と個別」「永遠と一瞬」を書きたいと話していた。-『朝日新聞追悼記事より』

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この記事へのコメント

S子
2007年09月02日 23:12
この世に存在すること、こうしてブログという形で言葉を交わせる事、奇跡としか言いようがありませんね。
私は、間違っていたかもしれません。余りにも神の意思に反して、己の意志を通そうとしたこと・・・・空しさだけが残ります。考えればそれも神の意思であるかもしれません。
さんがつ
2007年09月03日 03:06
E・Gさん、、ありがとうございます。
池田昌子さんは、お名前だけで読んだ事はなかったのですが、こうしてご紹介いただいてそれは衝撃としかいいようがない。
それも、きっと今、池田さんのお言葉にであったということがたいせつなのでしょう。。

 合掌
はるママ
2007年09月03日 13:11
E・Gさん、先日は亡き娘のブログにコメントをいただき
ありがとうございました。
早速こちらへ伺わせてもらいました。
写真も美しく、日記の言葉一つ一つも素晴らしく
とても素敵なブログですね。

>なぜだかわからないけれども、その人と出会ってしまったわけです。これはすごく不思議で、これ自体が奇跡的なことだったと気がつくと、悲しんでばかりでもなくなる。驚きとともに、感謝にも似た感情も起こってきますね。

娘を亡くした直後は、悲しみや恨みの感情ばかりがわき上がってきましたが
4年経った今は、恨みの感情は薄らぎ、悲しみや寂しさはなくならないけれど
こういう感謝の気持ちも感じられるようになってきました。
生まれてきてくれてありがとうという感謝の気持ち
心の中にあるたくさんのおもいで
今も自分にいろんなことを語りかけてくれる娘
そこには目に見えないけれど、今も存在し続けるものが確かにあるようにおもえます。
池田さんの言葉は、とかく目に見えるものにこだわりすぎる
現代のわたしたちに、もっと大切なものがあるんだと教えてくれるようです。
E・G
2007年09月03日 20:50
S子さん
ここ数日、熱と頭痛がひどくて返信おそくなりました。

出逢いとは不思議ですね。その究極では地上の言葉は不要になります。
愛している、などと日に何十回も言わなくても、愛そのものをみつめていれば、ひとは出逢うべくして出逢うのではないでしょうか?
そしてそれは生死をも超え、膨大な時間をも超えて、そこに在るものでしょうね。神の意思とは「ほんとうのわたし」の意思かなとも思います。
E・G
2007年09月03日 21:04
さんがつさん
物を言うことにおいて躊躇しない、という点でさんがつさんと池田さんは似ているかもしれません^^。池田さんにとっては地上の属性としての自分などどうでもいいことで、みつめていたものは「ほんとうのわた」、「ほんとうの言葉」であり、「ほんとうの言葉」が「ほんとうのわたし」からあふれてくる限り、そこに躊躇するものなど何もなかったのですね。ぼくは無理に池田さんの著作をすすめたりしませんが、気が向いたら何かひとつお手に取ってみてください。けっこう笑えるものもあります。
E・G
2007年09月03日 21:59
はるママさん
池田さんが亡くなられたと知ったとき、いつのまにかネットで池田さんの記事を追っていました。そしてかなりの数のひとが衝撃と悲しみを受けていることを知りました。けれど他の有名人の死にぶつかった時と皆さんの反応が違うのは、悲しみよりも出逢いの奇跡への感謝へとそれが即、昇華されていたということです。もうそこで出逢いは決定的となってしまったのですね。
はるママさんの体験はある意味でぼくの体験とも似たところがあります。宝くじが当たるような確立の不幸になぜ自分が遭遇してしまったのか、神を恨んで当然だろうとも思っていました。
けれど大切ものは目に見えないながら、生死や時間を超えてこのたましいのなかに秘められている。たましいの場のなかでは別離はないのですね。
昨日、「残酷人生論」を買いました。池田晶子さんのエッセンスがつまった一冊でした。
そのなかの一文、
「人が、自身の宿命を認識し、それに沿い、その実現のために為される努力、これが幸福だ・・・・人はいかに自身の宿命を認識すべきかー宿命は魂にあるのだから、己が魂を、まずよく認識することである。」
S子
2007年09月25日 20:12
神の意思とは「ほんとうのわたし」の意思かなとも思います。・・・

E・Gさん、有難う御座います。その刹那刹那の判断、神の意思といって戴けて少し心が安まります。
宿命の認識と言っても、難しすぎます。何時も己の判断に揺らぎます。揺らぐから生身の人間なのかなと思ったりして~~
S子
2007年09月25日 20:15

己の判断とは、儒教的な、道徳的な判断ではなく・・
ここでは上手く伝えられませんが。
E・G
2007年09月30日 23:51
S子さん
うっかり気づかず過ぎてしまうところでした(汗)

「わたし」というもの、つきつめていくとほんとうに不思議です。
なぜこの「わたし」なのか?他にない、この「わたし」が宿命ですね。

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