祈り

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あなたの記憶によって
わたしたちは見い出されるでしょう

かなしみはあなたとともに
夢と言葉のわだつみふかく沈み

いのちの影-わたしたちは
祈りの像(かたち)となって待つのです



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この記事へのコメント

於兔音
2011年03月28日 23:32
言葉が祈りにつかわれ
思いが祈りにつながる
そうありたいと 
思うのです。
E・G
2011年03月29日 21:41
於兔音さん

祈りは本来、特定の誰かのために捧げられるものではないと思います。
於兔音さんの仰るとおり、それは言葉の深い部分とつながるべきもの
でしょう。
そこでは祈るものが祈られるものであり、祈られるものが祈るものと
なります。
祈りの根底では主客の別がなくなるのではないかと思うのです。

Tycho
2011年04月03日 23:31
募金活動をする、または募金をした。
支援物資を送った。或いは運んだ。。。
今すぐに何かした事で、自身の満足として完結する。
その本人にとって、この震災との縁はそれで終わり。
そういう一過性の終わらせ方って、いいのだろうか?
震災の体験を本当に共有したい気持ちがあるなら、どうもとるべき態度は別にあるような気がする。

メディアの一過性キャンペーンに乗る事も決して悪くは無いけれども、自分でできる範囲と期間を決めそのそれを満たすまでは、支援を続ける。
何も難しい事でなくて良い、例えば一回のみ100円だけ募金したとする。
それを、一回10円ずつ10回に分けそれを半年間続ける。
自身のささやかな後ろめたさを感じながら。。。
そう、それは金額の小額さやこんな事しか出来ない自分に対しての。。。
そして、その後もこの思いをした事を、常に心のどこかに留めておこう。
笑われても良いが、私に出来る事はこの程度。

どうせ個人で全てを抱え込める程、小さなものではない。
"歴史は繰り返す"という言葉は、ひとが学ばないのでは決してなく、途方も無く大きなものを抱え込めずにいるのだからしようがない。
けれども放棄する事は許されない、問い続けなければならない、かつての大戦や災害のように。
そして、そういう人たちは身近にいる。
ただ只管、かつての香月泰男氏のような伝え続けようとする人に耳目を向けること。
市井の一個人として出来る事は、その方々がいる事を知り、時には鑑賞しに行くなりして、忘れないようにすること。
それが無理なら、時々でいいから、自分の経験したこの小さな体験を思い出し、忘れないように問いつづけること。
そして、できるならその時に祈りを忘れないこと。
私に出来る事は、ただ、それだけのことです。
E・G
2011年04月04日 19:59
Tychoさん
個人を超えた問題でありながら、「わたし」をつきつめることが求められているのだと思います。
「わたし」の根底にこそ、すべての痛みを抱擁する「絆」が存在するのかなと。
あくまでも「わたし」の問題としてひきつけなければ、それはつまりは他人事で終わるしかありません。
祈りは、わたしの弱さも愚かさも認めたうえで、痛みとさえひとつになりたいと願う想いのなかから生まれるものでしょうか。





Tycho
2011年04月04日 23:23
あらあら
前段は、うまく投稿出来なかったかしら。。。
ああ、でもこの時期にふさわしくない言葉があったから、削除されたのかも。
それがあって、続く話しだったのだけれど。。。

関西にいる私にとって、この大きな出来事は、正直、手に余ります。
はっきり云ってしまえば、遠いところの出来事としか思えないのですね。
もう既に、その影響は、此処関西にもあるというのに。。。

だからこそ、E・Gさんの言われる通り、"わたし"の問題とするしかないのです。
其処から踏み込んでいかないと、私のように離れた場所にいる者にとって、一過性の出来事で終わってしまう怖さがあります。
自身の体験を踏まえ、傍観者でいられない気持ちなのに、取り付く島が無いと云うか、
縁遠い地域である事もあり、どうにも感覚が鈍いのですね。

阪神大震災の当時、此処関西とそれ以外の地域の温度差には、かなり思うところがありましたが、私自身がその立場に立ってしまい、大きく戸惑ってしまっています。

もう1度だけ、送ってみますね。
Tycho
2011年04月04日 23:28
こんなときに発する言葉には、ずいぶん躊躇してしまう。
それを強く意識しながら、伝える決意をしているあさのあつこさんの言葉は、この重大な課題に対してのひとつの指針となるのでしょう。

亡骸の映らない被災地は、僕らの世代だと如何しても怪獣たちが壊してしまった町のようにしか見えない。
仕方ないから、想像力で埋め合わせするしかないが、現実の光景には、決して及ばない。
しかし、このうそは罪深い。
真実の映像を見せてはいけないなら、この不思議な映像も観てはいけないとわたしは思う。

罹災者の方々はそれと対峙し、まともに弔う事も出来ずに避難所に向かった。
日々増し続ける悔恨の念、どうしようもない事態なのに自分の無力さに自責を続ける。
後悔と自責を続ける人たちに、誰が言葉を掛けれようか。

それでも言葉には力があります。
かつての震災からずいぶん経ったのだけれども。。。
"同じ罹災者の方々と必要に応じてとる簡単な言葉のやり取りに、生きている実感と、ほんの少しの安心が得られる"ことが一番大きかったと云います。
その後、"共同生活の不快さを感じる事になる"と、注釈を付けたのだけれども。
それでも、"自身と外界との快・不快を問題にできるようになる分、ほんの少しだけ立ち直った事に、後になってから気付いた"とも云っていました。

そして、、、
"募金という代理で恵んで貰う惨めさは、(本人が直接乞うより)人の誇りを苦しめるんだよ"
"神戸の復興が早かったのも、こう思う気高い人が多いからだよ、きっと。。。"と本気とも冗談とも当時は判りかねたのだけれども、友人の言葉は、私の心深くに大きく刻まれました。
善意の募金も、罹災した現地の方々にとって複雑に感じる人は多いのでしょう。
これ以降、私は簡単に募金箱に小銭を入れる事が出来なくなりました。
E・G
2011年04月05日 20:31
「ひとつになどなれっこないのに」
ひとつになろうキャンペーン?で盛り上がっている世間を横目に、可愛くない自分がつぶやきます。その後自責の念が沸いてくるのは、それがいま現在被災地の方たちが切実に欲している“物”を充たすことから遠いからでもありますね。
しかし、よく考えてみると、間近に悲惨な体験をしている一人がいても無視しているような我々が、この震災の被災者には大きな関心を示すというのは不合理ではないかと思うのです。その疑問に対して「だって数が違うよ」と言い切れるでしょうか?一人の悲痛は、1万人の悲痛に及ばないと言い切れるでしょうか?その問いに惑うことができる人ならば、なぜ自分は全財産を投げ打って募金できないのかと悩むこともできるかもしれません。自分の生活には支障のない義援金を出して、何かとてもいいことをしたような自己満足に気づかないその無神経さこそ、失意の人をさらに鞭打つものであるかもしれません。

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