雨の黄昏の物語

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雨が降っているね
街に灯が点いて
蒼い時間がやってきて

今夜はどんな物語を話そうか











この記事へのコメント

於兔音
2012年05月03日 21:33
その物語を
聴かせてください…

いつか。
S子
2012年05月04日 11:35
遠い遠い日の大切な記憶も、
思いでも、
儚いものになって・・・

何時かは総て、消えていくのでしょうね。
この世に存在したことさえも。

そんな潔さを願ってもいる私です。
E・G
2012年05月04日 23:26
あはっ、於兔音さん
ビターで、スゥイートな物語を

いつか、ですね
E・G
2012年05月04日 23:53
S子さん

「この身体、空の微塵に散らばれ」と
宮沢賢治の詩の一節にもありました。

潔くはありたいです。

ところで「個人の思い出」は、「宇宙
大の思い出」という物語を織り成して
いく微小な一片なのかもしれませんね。
Raphael
2012年05月08日 19:18
森の扉が開いたら、耳を傾けて聴きたいって思ってました。
E・G
2012年05月08日 21:17
RaPhaelさん
森の扉は半ば壊れかけで
鍵もかかっていないんで
いつでもお入りください
(笑)。
Tycho
2012年06月07日 01:31
金星日面通過の日
金星はいつも雨だった

本当に雨は止むのだろうか

七年に一度の夏
たったふた時の出来事

各々の想いが行き交うその時まで

すべての夏をこの一日に
すべての夏をこの一日に


この人にとてもふさわしい日
思い入れがある分、かなしいけれども
遠き十代の日々に出逢えてよかった

この胸の悼みに
万華鏡を読みながら、今日の眠りに就こう
E・G
2012年06月07日 22:38
Tychoさん

好きな人との別れの日はなぜか
いつも雨が降っていました

だから優しい雨のなかで傘を閉じ
身体のなかを落ちていく雨を感じ
たい時もあります。

けれど・・・
7年降り続く雨はあまりに辛い!

ブラッドベリ、彼も逝きましたね
その想いが生んだ無数の物語世界
に旅立ったのか?

「存在」の本質は<想い>そのも
のかもしれないと時に考えます
<想い>が宇宙という物語をも生
んだのかと。

彼のように物語れる人というのは
半ばは存在の側にいる人なのかな?
Tycho
2012年06月13日 01:12
梅雨に入りましたね。

何度も反芻しながら、考えていました。
結局
たましい
これに行き着くのでしょうね。

私は、魂のふるさとは、人の認知の外側
つまり、この宇宙の外にあるのではないかと
だから、最初に光あれといったのは、神ではなく人の魂の総体のようなものではないかと思えて仕方ないのですね。

ユングの集合的無意識から来る共時性(シンクロニシティ)についても、具体的にはこれではないかと思うのです。
無意識層も過去記憶の源も意識共有となり得るこの総体由来という考えをずっと持っています。
このように「存在」と<想い>を私は解釈します。
つまり、一元論的な考え方ですね。

bookman達がきちんと彼の作品を引き受けてくれたと思います。
だって彼は、Yestermorrow Placeにいるし、読者みんながブラッドベリのbookmanなのだから、何時でも此処にいると思えばいるし。。。

ブラッドベリも「立ち現われ」なのですよ。
E・G
2012年06月14日 21:07
ひとの魂はなぜそれぞれに違っているのか?そのなかでも自分にとって近しいと感じられる魂と異質に感じられる魂があるのはなぜなのか?
ずっと考えていました。そしてある瞬間、〈集合的魂〉という言葉が浮かびました。この言葉は考えたというより、やってきたという感じですね。むろん「集合的無意識」からの連想でもありますが。Tychoさんの〈魂の総体〉というお考えと非常に近しいものではないかと勝手に親近感を覚えます。
個個の魂は現象以前の場で集合的魂の一群を成し、それら集合的魂も集まってさらに大きな魂群を構成しているのではないかと思うのです。宇宙における銀河や銀河群を思わせるような・・けれどさらに錯綜、複雑化した構造-魂の総体なのでしょうね。
Tychoさんは「光りあれ」と言ったのは神ではなく魂の総体ではないかとおっしゃいました。それは、ひとの魂と離れて超然と客観的に存在する神というものに違和感を感じられておられるからではないでしょうか。
ならば見方を変えて、魂の総体こそ神であると言ってもいいのかなと思います。そうであるならば魂の最小単位である私たちは、神の細胞と言えるのでしょう。
では、なぜ私たちはここに現象しているのか?この辺りに思いを巡らすのもなかなか愉しいです。
私たち個個の魂は魂の総体である存在の自覚点、存在が自己を映す鏡であると、西田幾多郎風にいうこともできるでしょうか。そこにそこに存在の〈想い〉という働き、息吹を感じ取れるような気がします。その想いというものがどういものなのか・・・ということについても、いつか書いてみたいです。
「立ち現れ」・・すべての人もまた「立ち現れ」といえるのでしょうね。ぼくの場合はもう「立ち枯れ」に近いですが(笑)。

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