川の流れの果て

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父が亡くなった。
臨終の時も葬儀の時も、やはり涙は流れなかった。
病院では、妹が泣いて父の遺体に取りすがっていたが、なんだか遠い光景のように視界の隅に映るだけだった。
ぼくは冷たい人間だろうか?
おそらくそういうことではないのだろうと思う。
ぼくは、たぶん他の人とは死の捉え方が異なっているのだ。

いつの頃からか、父のかなしみをぼくは感じていた。
感じる-ということにおいて、ぼくのたましいのフィールドは父のたましいのフィールドとゆるやかに重なっていた。
いまもなおその重なったフィールドにおいて、父は生きている。
むしろいま、父はより確固とぼくのなかで生きているのではないだろうか。

一個の人間が存在したということ、存在したものが存在そのものへと還っていったという単純な事実。そのことがぼくのたましいをしずかに揺さぶる。
揺さぶられたたましいは、存在の海の記憶をフラッシュバックさせ、川の流れの果てへと想いを運んでいく。
おそらく、ぼくにとっての供養とはそういうかたちのものなのだ。

泣くということで実は遺族は故人を忘れるための第一歩を踏むのだが、ぼくは決して忘れないために、たましいの海の遥かなひろがりをみつめている。






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